Macを愛用・NEC9801からスタートして、

赤坂とStudioの往復は.....きつかった。

私は、レギュラーを抱えていたから、親父のStUdioを手伝う暇はなかったけれど、PCのこともあって、ほっておくことも出来なくなった。1980年代の初頭。

最初に目にしたPCは9801。今に伝わる名器であります。FDで動いてましたが、番組管理と、出演者の特徴などを記録するには、これっかないということで9801を導入。けれど、読む本も、教えてくれる学校などはありません。導入にあたり、大塚商会に10日ほど勉強会に。これで、わかるはずがありません。毎日、毎夜、9801と戦いです。そして、6ヶ月が経過して、自由に文書の制作も、検索も操作できるように、なんとか達成。

これを横で見ていた我が友脇戸君は、カメラ趣味からPCに溺れることになります。

おさらく、当時、スライドショーを最初に創ったのは脇戸君だろう。とにかく、帰宅してから翌日の出社まで9801と会話していたらしい。とにかく、波形モニターとベクトル・スコーブを24時間監視していても飽きないひとですから、9801と会話していても大丈夫だったのでありす。けれど、午後の4時から7時ころまでは、動いていても、死人。活発になるのは8時過ぎてから。今から考えると、労働時間など無視で、新しい機材を次々に購入。それら機材に馴れるための時間。そして、仕事。

よく続いたものだと、おもう。仕事が趣味が同居して苦にならなかった年代。

時代的にも24時間働くことが、自慢できる時代背景もあった。

CXでADしてた田中君は開いてる週があって、私のアシスタントをしてくれたけれど、ロケから帰ったその場から、スタジオに泊まり込み。監禁、缶図め状態。「僕はBNCのハンダ付けはまかしてください」の一言が難になって、一ヶ月ほど、食事はドアの隙間から差し入れされて、ハンダ付けの日々。そのおかげで、MAまで、親父のスタジオで可能になった。

そんなある日、田中君が「僕、CXに戻っていいですか」と訪ねられて、田中君がCXと契約していることなど、意識的に私は忘れていたが、彼の選択に任せた。

田中君は、こぼれる笑顔を残してCXへ帰っていた。こんな状況下で、9801も進化していたが、開発意図は「事務」。放送機材との連携は難しくなってくる。

1985年から雑誌「Videoα・壊れ始めたおもちゃ箱」連載ページ始まる。

連載と云っても、僕に全て一任されたので、Off月はOffで、気ままだったが、

編集の中村さんにはずいぶんと面倒をかけた。

 

 

 

 

 

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